見たい世界を見ている

人は世界を見たいように見ているってことなんですよね。見たいものだけを見ているというか。世界には「ぜんぶ」あるので、どこにフォーカスするかっていうかアンテナを向けるかっていうか、それによってその人毎に世界の表れ方が違ってくるという話です。

「世の中が間違ってる」とか「世界は悪に満ちている」とか、いろいろありますけど、そういう風に見るなら、その人にとっては世界はそういう表れ方をしてくるし、「世の中最高」「世界は美しい」とか、そういう風に見るなら、やっぱり世界は美しいわけです。でもどこまでいってもそれは「その人にとって」そうなっているだけで、当然絶対的なものではないですよね。

「世界はひとつじゃない ああ このまま ばらばらのまま」

って星野源さんもいいこと言ってますけど、人の数だけ世界はあるということです。

善悪、美醜、優劣、幸不幸とかそういう諸々の仕分けは、生きている限り続いていくし、それ自体別にいいわるいってことでもないんですけど、見たいように見てるなあ、ってことに気がつくと、「これは見たいものなんだろうか?」ってことにも思いが至るというか。ちょっと待てよと、自分が見たい世界はこっちじゃなかったぞと、そこで転換できたりもして。

0か100かというような、そこまで極端な見方をする人ばかりでもないでしょうけど、大なり小なり、見たいものを見てることには変わりないですからね。

いろいろと外側に問題があると感じて、世界に対する不満を口にしてみても、実はそれ、自分がそう見たいからそう見えてる、自分が望んだ世界だったりします。それでいて、自分が望んだ結果ということに気づいてなかったりするんですよね。そういうものだと思ってるからそういう部分ばかりがくっきり見えて、それを拾ってしまう。

世界には「ぜんぶ」あるので、どちらかだけってことはない。どっちもあるし、それでいてどっちもないし、だから突きつめて言ってしまえば、ほんとうはどっちでもいい。

それなら、「ぜんぶある」その豊かさの中で、どっちを見ていくのかっていうのはまったく自由なんですね。

ぜんぶある豊かさというのは、相対を超えたところの話です。醜に対する美じゃなくて、どちらでもない、どちらをも「ひっくるめた」美しさ、という風にも言えます。ただ、そこをそのまま生きていくというのは難しい。ならそのベースの上で、見たいものを見ていけばいいんじゃないかと。

まあ世界をどう見ようと、ほんとなんでもいいんですけどね。世界はばらばらだけど、それでいて、ばらばらのままにひとつでもあるから。

六道輪廻というのがありますけど、修羅道にいる人にとっては世界は修羅道だし、餓鬼道にいる人にとっては世界は餓鬼道でしかなくて。死んだ後に生まれ変わる先というまでもなく、いまこの瞬間にもこの六道を行ったり来たりしてるような存在が人間なんじゃないかなと思います。ちょっと今修羅道にいたわー、とかね、誰でもありますよね。「あいつゆるせん!」という心で満ちてるときとか。

だからいま自分がいるどの道にいるのか、これがわりと上のほうの割合が大きければ、まあいいんじゃないかと思います。修羅道にいたらもうずっとそこから出れないってことじゃなくて、出れるということですね。いまどこにフォーカスするかというだけなので。でもフォーカスを変えずに、世界はそういうものだと思ってたらやっぱりそういう世界のまま。ただ六道は上のほうでも「天」止まりで、仏ではないわけなんですけど、細かいことはいいんじゃないですか。

そっちの世界の話でこんなことを聞いたことがあります。

「幽霊の話に興味を持ったり、見たいとか強く思ってしまうとそういう低い存在と同調してしまうので、アンテナを向けるなら神仏に向けたほうがいい。」

幽霊が「実際に」いるのかいないのかというのはどうでもいいんですけど、これ、理屈としてはしっくりきます。ああそうだろうなと。ぜんぶあるこの世界では、変なものを見ようと思えば見えてしまうし、変なもので自分の世界が出来上がってしまいます。そういう風になっている。

最近改めてリマインダーとして機能してるのが延命十句観音経なんですけど、このお経の中に「朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心(ちょうねんかんぜおん ぼねんかんぜおん ねんねんじゅうしんき ねんねんふりしん)」という句があります。朝に晩に、観音さまを思い起こして心から離れないようにします、みたいな意味ですけど。こういうことなんですよね。いまどっちを向いているのか。ほんと私はすぐに心が取っ散らかるので、このお経はいいなあと思います。やっぱり神仏方向で世界を見たいので。