他力が足りてない

ちょっと意味のわからないタイトルになっていますが、最近はもっぱらこの「他力の足りてなさ」について遥子さんと話しています。いや実際は他力が足りるも足りないもない、というのは当然なんですけどね。

どういうことかというと、とにかくほとんどの人が「個人の話」をし続けているんです。これもやっぱり意味のわからない言い方になってしまうんですが。

もちろんいいとかわるいとかの話ではないんですけど、ただ、勘違いをされてしまうなあということ。

仏教で「悟り」とか呼ばれるようなことに関して、多くの人が「本来私と宇宙は一体」だとか「いのちはひとつ」とかそういうことを言っていて、それはそうなんです。言葉としてはたしかにそうだなと。そうなんですけど、そういうことを言っている人がどういうわけか、「あなたはまだまだ分かってない」とか「あいつはまだまだ修行が足りない」「あの人はすごい、本物だ」とか言ったりもするんですね。これほんとうに多いんですけど、正直「は?」って思うんです。

だっていのちはひとつなんですよ?ひとつというか、ひとつもふたつもない「これ」しかないんです。境とか枠とかないんですよ。それなのになぜ「あいつはまだまだ」みたいな発想が出てくるのでしょうか。「私」を超えたいのち、それを神と呼んでも仏と呼んでも差支えないと思いますが、それって「私」と別にあるものではないですよね。ほんとうに。だから「私が宇宙とひとつになる」とか「私がそこに至る」とか「私が悟る」とかそういう話にはなり得ないじゃないですか。「これ」しかないのに。もともとこれしかないという話なんですよ。「人」の話をしているんじゃないんです。そんな小さな話じゃなくて。

そういう人たちは言葉としてはそれっぽいこと言ってるんですけど、「私」という前提が覆ってないままにそういうことを言うもんだから結局「個人」ありきになっている。個人ありきということは当然「優劣」が出てきますよね。すごいすごくないとか、そういう話にしてしまう。

そういう人たちがすごいと思っている人と、まだまだだと思っている人との間にこの「いのち」「ただあるこれ」が、なんの隔たりを生じさせているというのでしょうか。「枠はないんだ」と言いながら、すごいだのすごくないだの、そんな話をするというのは枠にこもるようなものではないでしょうか。

「ただいのちがある」というのは、もうほんとうにシンプルに、ただそれだけのことなんですよ。「いま、いのちがあなたを生きている」以上!見かけ上、生まれようが死のうが、何も増えないし減らない。一切はすでに成されているんです。

ところがこの圧倒的な「なんでもなさ」というのは、個人としての私にとってはどうしようもなく物足りないんです。だから普通は見向きもしない。そしてちょっとそこに目を向けようとすると、今度は恐いんですよね。「私が」積み上げてきた(と思い込んでいる)ものが崩れ去ってしまうようで。なんとかして「この私が掴み取りたい」と抵抗してしまう。だから、「そんな簡単にわかるわけがない」とか言うんですね。

でもですよ、その「私」と思っているものと「私以外」と思っているものの間に「境」なんてないですよね?という話をしてるんですよね、そもそも。死んでも死なないですよね?という話をしてるんですよ。もちろん肉体はなくなりますけどそういう話じゃなく。魂がどうこうという話でもなく。「私」や「あなた」が何をしようがしなかろうが、何の影響も受けずにただある「これ」の話です。「私」がどうあろうと、ただ受け入れているなんでもない「これ」の話。

この圧倒的な「なんでもなさ」ってほんとうに「私」をあきらめないと見えてこないんですよね。「これしかない」なんてことは「私やあなた」という個人を前提にしていたら気づきようがない。なんでもなさすぎてスルーされてしまうのは当然です。「あいつはまだまだだな」とか、そういう勘違いをしてしまうんですよ。

でもですよ、ほんとうに「私にできること」なんていうものがあるのか?ということを真摯に問うていったら、そこで「あ、これか」ってなりますよね。それこそあっさり。なんの修行もしてなくても。

とにかく「私がやっている」という思い込みが強すぎて、戦いが続いてしまうんですよ。いつまでたっても終わらない戦い。別にそれが趣味だというならそれはそれでいいんですけど。まあこっちを巻き込んでほしくはないな、とは思います。ただほんとうに安心したいなら、「私」をあきらめてみてもいいかもしれませんよね。

「阿弥陀仏が救いの手を差し伸べても、人は仏から逃げ回る」

これはほんとうに上手い言い方だなと感心します。なんでもなさに人は救いを見ない。特別なものばかり追い求めるんですね。「差」ばかり見てしまう。それでも仏に追いかけられて、つかまえられるんですよ。「私」は降参するしかないですよね。

「ほんとうにひとりになったら、そこにひとつが見えてくる」

「自分しかいない場所には、自分すらいない」

と遥子さんが最近言ってましたけど、ほんとうにそうですよね。もう「ほんとうに」ばかり言ってますけど。ほんとうにひとりになってはじめて「仏」とか「他力」という言葉の意味も実感を伴ってくるのではないでしょうか。

いつだって「これ」しかない。そこに誰かのことを「まだまだ」なんて言う余地が、はたしてあるの……?とまあ長々と言っておきながら、それでも結局はなんでもいいんですけどね。正解も間違いもなく、ただそういう風になっていて……。